踊る文学おじさんの生活

皆がすなる「ぶろぐ」といふものを文学おじさんもしてみむとて、するなり。元・文学青年の生活を書き殴ります。

元・文学青年の呟き

私は今年で31歳になるが、今から10年ほど前の学生時代は、典型的な文学青年をやっていた。

それも結構立派に。

 

古今東西、あらゆる本を年間100冊以上読んでいたように思う。

漱石の「坊ちゃん」から始まり、明治・大正の古典を読みあさっていた。芥川、太宰はもちろんのこと、鷗外の「舞姫」のような意味不明すぎる日本語もなんとか読んだし、田山花袋永井荷風志賀直哉泉鏡花も読んだ。

海外ではドストエフスキートルストイチェーホフなどのロシア文学にハマり、「カラマーゾフの兄弟」にいたっては大学在学中に2回も読破した。(イワン推しである)

 

当時はケータイ小説の類がまだまだ流行っていて、作中のヒロインはだいたい難病に冒され、余命があと14日とかいうよく分からない事態になっていた時代だ。

そんな中、僕は「みんなと違うことをする俺カッコイイ!」と信じていたし、その気持ちが態度にも出ていたと思う。

少なくとも僕の周りにカラマーゾフを読んでいる人はいなかった。たぶんみんなは合コンとかサークルに精を出していたに違いない。

 

みんなと違う本を読んでいるから、当然周囲からは「変人」のレッテルを貼られる。

当の本人もそれが気持ち良かったりするのである。(この虚栄心の塊みたいな性格は今でも続いている)

自分は何か特別な存在で、将来は人と違った暮らしをするんだろうな、と漠然と思っていた。

いかん、完全にこじらせている。いや、今でもこじらせは継続中なのだが…。

 

それが大学卒業後の暮らしはどうか。

普通も普通、まるきり凡百の徒である。

「自分は特別」という万能感は働きはじめて3年も経てば消え失せ、残るのはただ無力感だけ。「社会の厳しさ」なる謎のワードに屈服させられてしまったのである。

 

本も読まなくなった。

あれだけ読んでいた小説が、頭に入ってこない。所詮フィクションだ、現実の俺には何の変化ももたらさない、と脳が拒否してしまっているようだった。

実利を求めて自己啓発本や資格関係の本などは読むが、それも年に5冊も読めば御の字というところである。

(自己啓発本は1冊も読めば、あとはだいたい書いてあることは一緒、と悟るのは社会人4年目くらいのときだ)

 

困ったことは、本を読めなくなったことだけではない。

読んだ内容を思い出せないのだ。

芋粥」や「斜陽」のような、教科書に載るレベルの作品でも、あらすじが思い出せない。ぼんやりと話の流れは覚えていても、オチが思い出せない。

こういうことが増えていった。

 

いやはやまいった…。

 

何故か。

 

色々考え、原因は僕の読書スタイルにあることが分かった。

すなわち、僕は読んだ本のアウトプットをまったくしていなかったのだ。読むだけ読んで、「面白かった〜」で済ませ、すぐに次の本に移っていた。

これでは感想が「ヤバい」しか言えないその辺のねーちゃんと一緒ではないか…?

ヤバい。

これはヤバい。

 

まあそんな経緯があって、ブログを始めることにした。

読んだ本や日常のできごとを、その時の僕の言葉で綴っていこうと思う。

きっと何年かあとに見返したときに、何かの財産になるはずだ。

 

そして、昔、「何者かになれる気がしていた」元・文学青年、文学少女のような同好の士にも、楽しんで読んでもらえるような内容にできれば幸いである。